節句(せっく)という言葉を聞いたことがありますか?
「桃の節句」や「端午の節句」などは、聞いたことがあるのではないでしょうか。
実は節句は「五節句(ごせっく)」といって、5つあります。
五節句に興味を持つと、以下のような疑問が出てくるかもしれませんね。
- なぜ5つあるのか?
- 五節句は、それぞれいつで、どんな呼び名なのか?
- いつから五節句はあるの?
- そもそも、それぞれの節供にはどんな意味があるのか?
そこで、五節句の名前と日にち・意味・由来・どんなならわしがあるのかについて、詳しく紹介していきますね。
五節句とは? 江戸時代に定められた現代でいう祝日にあたる日
実は「五節句」として5つの節句が定められたのは、江戸時代です。
江戸幕府が、古くから日本にあった風習の中から5つを選定して定めました。
ちょうど季節の節目にあたる「節句」の日であることから「五節句」と呼んだのです。
五節句は「式日(しきじつ)」とされました。
式日とは、現代でいう祝日です。
昔は休日という概念がありませんでした。
そのため、人々が普段の仕事を忘れてリフレッシュさせる意味合いもあったといわれています。
現代に残る五節句のならわしの起源は、江戸時代に生まれたものも多いんですよ。
節句の起源は昔の中国で「季節の変わり目」を意味した
江戸時代に五節句が定められましたが、5つの節句の風習自体は、江戸時代より前から存在しています。
5つの節句の元となった風習は、いずれも古い時代の中国の風習に起源がありますよ。
昔の中国では、奇数は縁起がいい数字という考えがありました。
そこから、同じ奇数が続く日は縁起がいい日とされていたのです。
やがてこれらの風習は、奈良時代から平安時代にかけて日本に伝来します。そして、それぞれの日に、それぞれのならわしが生まれ、祝われていました。
日本に伝来したあと、日本古来のならわしと混じり合ったり、日本独自のものにアレンジされたりしました。
その後、宮中行事となって貴族や公家のあいだに定着していきます。
それが江戸時代に五節句として定められて、武家や庶民にも広がっていったのです。
さきほど紹介したように、江戸時代に五節句が定められたとき、1月1日は元日として特別な日だったので、1月1日に近い縁起の良い日として、1月7日の人日が五節句に選ばれたのです。
人日も古い時代の中国に起源があって、日本に伝わって宮中行事となったものですよ。
五節句の一覧・種類
ここからは、五節句の種類を紹介していきますね。
五節句は、名前のとおり5つあります。
▼五節句の種類は、以下のとおりです。
| 月日 | 節句 | 別名 | 象徴する植物 |
|---|---|---|---|
| 1月7日 | 人日 (じんじつ) | 七草の節句 | 春の七草 |
| 3月3日 | 上巳 (じょうし、じょうみ) | 桃の節句 | 桃 |
| 5月5日 | 端午 (たんご) | 菖蒲(ショウブ)の節句 重五(ちょうご) | 菖蒲 |
| 7月7日 | 七夕 (しちせき) | 笹の節句 竹の節句 笹竹の節句 七夕(たなばた) | 笹、竹 |
| 9月9日 | 重陽 (ちょうよう) | 菊の節句 (栗の節句) | 菊(栗) |
1月以外は、奇数のゾロ目の月日となっていますね。
また、各節句には象徴する植物と、それにちなんだ別名がありますよ。
なぜ奇数なのか、なぜ象徴する植物があるのかについては、あとで詳しく紹介しますね。
それぞれの節句の意味について
五節句は、江戸時代に徳川幕府によって制定されました。
でも、江戸時代よりずっと前からならわしとして存在していました。
そして、五節句それぞれに意味があり、それにちなんだならわしがおこなわれます。
ひとつずつみていきますね。
五節句すべてに共通するのは、邪気払いをして健康に過ごせることを願う点
五節句には、すべてに共通する意味があります。
それぞれの意味をみていく前に、五節句に共通する意味を紹介しますね。
実は、五節句にはすべて「邪気払い」という意味があるんです。
「節句」とは「節供」とも書かれます。
そもそも「節句(節供)」とは「季節の変わり目」を意味する言葉なんですよ。
季節の変わり目は気候が不安定ですよね。
だから病気になるなど、体調を崩しやすい時期です。
昔の日本では、病気や体調不良は、邪気の力によって引き起こされると考えられていました。
そこで、節句で邪気払いをすることで、邪気の力を寄せ付けないようにし、健康に過ごせるように願ったのです。
また、それぞれの節句の時期に特有の植物の力を使って邪気払いをしていました。
やがて、それぞれの節句で使われる邪気払いの植物が、節句を象徴するものとなっていったのです。
人日の節句(七草の節句)は「春の七草を食べ1年の無病息災を願う日」
五節句共通の意味のあとは、各節句の意味を紹介していきますね。
まずは、人日の節句から。
人日の節句は、毎年1月7日です。
ほかの五節句は奇数のゾロ目なのに、人日の節句だけ違うのは気になりますよね。
1月1日は元日として、もともとめでたい日でした。
江戸幕府が五節句を定めたとき、1月1日は特別なものとして避け、1月1日に近く、古くから人日というめでたい日だった1月7日を五節句に選んだといわれています。
人日は、中国の古い時代に生まれ、人間を大切に扱う日とされていました。
その後日本に伝来すると、日本に古くからある「若菜摘み」のならわしと融合します。
若菜摘みは、正月に「春の七草」を摘んで、粥(かゆ)などにして食べるものです。
やがて、平安時代ごろから人日は宮中行事となりました。
そして人日は、春の七草を「七草粥」にして食べ、一年の無病息災を願う日となり、江戸時代に五節句のひとつになったのです。
そのため、人日の節句には「七草の節句」という別名がありますよ。
人日の節句の詳細については、人日の節句について紹介したページを見てくださいね。
上巳の節句(桃の節句)は「女の子の健やかな成長を願う日」

次に、上巳の節句について紹介していきます。
上巳の節句は、3月3日です。
ただし、一部地域では旧暦の3月3日に近い、4月3日など4月上旬におこなうところもあります。
上巳の節句は、一般的には通称である「桃の節句」といわれることが多いので、桃の節句といったほうがピンとくるかもしれません。
また「ひな祭り」の呼び名でも知られています。
上巳の節句は、女の子の健やかな成長を願う日ですよ。
上巳の節句の起源は、古い時代の中国のならわし「上巳節(じょうしせつ)」です。
しかし、このときは女の子の成長を願うものではなく、春の訪れの歓迎と邪気払いのならわしでした。
上巳節では、川に盃(さかずき)を流す風習がありました。
奈良時代に日本に上巳節が伝わると、宮中行事に。
また、川に盃を流す風習は、自分の身代わりに人形を乗せて、邪気とともに流す形に変化しました。
江戸時代になって五節句のひとつとなると、幕府によって上巳の節句は女の子の健やかな成長を願う日に決められます。
そして、船に人形を乗せて川に流す風習は「流し雛」となりました。
やがて武家や公家などの上流階級では、人形を流さずに家に飾るように。
これが段々と豪華になっていき、現在も残る「雛人形」になったのです。
さらに、上巳の節句の時期は、桃の花が咲く時期。
桃は古来より邪気払いの力があるといわれる植物です。
そこで、桃を家に飾ることによって邪気払いをして、健康に過ごそうともしました。
上巳の節句の別名「桃の節句」は、ここから来ていますよ。
上巳の節句(桃の節句)・ひな祭りについての詳細は、ひな祭りを紹介したページを見てくださいね。
端午の節句(菖蒲の節句)は「男の子の健やかな成長を願う日」

つづいて、端午の節句について紹介します。
端午の節句は、5月5日です。
一部の地域では、旧暦の5月5日に近い、6月5日などの6月前半におこなうところもあります。
端午の節句は、古い時代の中国の「端午」というならわしでした。
しかし、内容は現在とまったく違っていて、屈原(くつげん)という詩人・政治家を供養する行事でした。
奈良時代に日本に端午が伝わると、宮中行事になります。
内容も日本流に変化し、菖蒲(ショウブ)を使って邪気払いをして、無病息災を願う日となったのです。
端午の時期は、ちょうど菖蒲が手に入るときで、菖蒲は葉の香りが強いのが特徴です。
香りが強いものは、邪気を払うと信じられていました。
端午の節句の別名である「菖蒲の節句」は、これに由来しています。
鎌倉時代以降、武士の世の中になると、菖蒲と尚武(しょうぶ)を掛け、武家のあいだで男の子が将来立派な武士になるように願う日にもなったのです。
やがて、江戸幕府によって五節句のひとつになりました。
武家のあいだでは、端午のときに鎧や兜などを飾り、幟(のぼり)をたてました。
これが現在の「五月人形」の原型です。
また、町人は鎧や兜を紙でつくりました。
これが折紙の「兜飾り」として現代に残っています。
さらに町人は幟がないので、代わりに縁起がいい鯉の形の幟をたてました。
これが「鯉のぼり」の始まりですよ。

ちなみに、5月5日は「こどもの日」ですね。
こどもの日は、昭和の時代に日本政府によって定められた国民の休日。
5月5日が端午の節句であることから、いくつかの候補日の中から5月5日に決められました。
気候面や連休になることも5月5日になった理由ともいわれています。
だから同じ5月5日でも、端午の節句とこどもの日は異なるものです。
なお、端午の節句についての詳細は、端午の節句のページを見てくださいね。
七夕の節句(笹竹の節句)は「習い事や学問の向上を願う日」

ここからは、七夕の節句について紹介します。
七夕は「しちせき」と呼びますが、一般的に七夕を「たなばた」と呼ぶことが多いですね。
七夕の節句は、7月7日です。
ただし、旧暦の7月7日に近い、8月7日など8月上旬におこなう地域もかなり多いです。
七夕も古い時代の中国のならわしが起源です。
織姫と彦星の話のモデルとされる「牛郎織女伝承(ぎゅうろう しょくじょ でんしょう)」から生まれた「乞巧奠(きこうでん)」という儀式が七夕の起源。
織女は、織物が特だったことから、乞巧奠は織物の上達を願う日でした。
7月7日の夕方におこなったので、七夕(しちせき)と呼びます。
奈良時代になると、日本に七夕が伝来し、宮中行事になりました。
日本では、織女星に向かって針や糸を供え、織物の技術向上を願っていました。
やがて、糸は布に変わっていきます。
また、昔の日本では機織り(はたおり)をする女性を「棚機津女(たなばたつめ)」と読んでいたことから、七夕を「たなばた」とも読むようになりました。
また七夕の時期によく育つ、笹や竹を使って邪気払いをする風習も誕生。
笹や竹の葉には、殺菌作用があることが昔から知られています。
七夕の別名「笹の節句」「竹の節句」は、ここから来ていますよ。
やがて、江戸時代に徳川幕府によって七夕は五節句のひとつになりました。
江戸時代は、寺子屋が生まれ、庶民のあいだでも教育や習い事が盛んになります。
そのため、織物の技術向上を願っていた七夕は、さまざまな習い事の技術の上達や、学問の向上を願うように変わりました。
さらに、笹や竹に技術上達の願いを書いて飾るように。
これが現在の「七夕飾り」に変化していったのです。
また、いつしか七夕はお盆を前に邪気払いをして身を清めるという意味も持つようになりました。
もともと盆は7月中旬におこなわれていましたが、現代では8月中旬におこなう地域が多いです。
そのため、七夕を旧暦に近い8月上旬におこない、8月中旬の盆に合わせている地域も多いんですよ。
なお、七夕の節句についての詳細は、七夕について紹介したページを見てください。
重陽の節句(菊の節句)は「不老長寿を願う日」

最後に、重陽の節句について紹介しますね。
重陽の節句は、9月9日です。
「9」という数字は、奇数の一桁台の数字で最大の数字ですね。
昔の中国では、奇数は縁起がいい日だという考えがありました。
だから、9が2つ重なる9月9日は、1年の中でももっとも縁起がいい日だったんです。
「陽」は奇数を意味し、9が2つ重なるから「重陽」と呼びます。
旧暦の9月9日ごろは、菊の花が咲く時期。
菊には健康増進や不老不死・若返りなどの力があると信じられていました。
重陽という縁起がいい日に、菊の力で長寿や健康を願う日になったのです。
また、日本では古くから菊には殺菌作用があるとして利用してきました。
だから菊で邪気払いをする意味もありますよ。
そのため、重陽の節句が「菊の節句」と呼ばれるようなったのです。
さらに重陽の時期は、栗が実る時期でもあります。
栗はイガに包まれていますが、邪気は尖ったものを嫌うと考えられていました。
だから、栗にも邪気払いの力があるといわれ、重陽の節句でも使われるように。
重陽の節句を「栗の節句」とも呼ぶのは、このためです。
なお、重陽の節句についての詳細は、重陽の節句を紹介したページを参照してください。
さいごに
古い時代からある五節句は、江戸時代に制度化されて、庶民にも広まりました。
明治時代になって五節句という制度時代はなくなりましたが、伝統行事として、現在まで受け継がれています。
明治初期に旧暦から新暦(現行暦)に変わって、ちょっと季節感などのズレはありますが、いまも日本で親しまれていますよね。
本来の節句の意味を知って、いつもの節句よりも楽しく過ごしてみませんか?
